「ユニバーサルな社会」の実現に向けて
科学や社会の発展のためには多様な人材の参加が不可欠
障がいのある人や高齢者など、あらゆる人が排除されない社会である「ユニバーサルな社会」。最近ではさらに「インクルーシブ=Inclusive(包括的な)」社会という考え方へと進んでいるが、さまざまな企業や組織がその実現に向けて取り組んでいる。それは学問の世界でも同様で、ユニバーサルな社会の実現は喫緊の課題だ。障がいのある研究者も排除されることのない研究環境を整える取り組みを行う、東京大学先端科学技術研究センターのインクルーシブ・デザイン・ラボの並木重宏准教授に話を伺った。
並木重宏 なみき・しげひろ
東京大学 先端科学技術研究センター
インクルーシブ・デザイン・ラボ 准教授
2009年筑波大学大学院生命環境科学研究科博士後期課程修了、博士(理学)。米国ハワード・ヒューズ医学研究所博士研究員、同リサーチサイエンティストを経て、同コンサルタントを現在も務める。09年東京大学先端科学技術研究センター特任助教に着任後、15年6月から12月まで病気療養のため研究を中断。その後、同センターで特任講師、特任准教授を経て、20年4月より現職。
多様な人がバリアを感じない配慮したデザインを
アメリカで行われたある調査によれば、STEM(科学・技術・工学・数学)分野における障がいのある学生の割合は、学部段階では約11%程度ですが、修士・博士課程になると減少し、博士号取得者は約1%に過ぎません。これは障がいのある学生にとって、実験室の設備のアクセシビリティの低さが、障壁として立ちはだかっていることに起因しています。
例えば車いすの利用者であれば、流し台を使いたくても足がシンクの下に入らず蛇口に手が届かなかったり、液体の入った実験器具をうまく運べなかったりと、日常的な作業に大変な困難を感じます。そのため、研究の継続を断念してしまうケースも多いのです。
私が所属する東京大学先端科学技術研究センター内にあるインクルーシブ・デザイン・ラボは、障がいのある学生や研究者も、研究を続けられるバリアフリーな実験環境を実現することを目指して立ち上げられたものです。
流し台でいえば、車いすの利用者でも足をシンクの下に入れられるように、電動で高さを調節できるように改良しました。同様に、実験テーブルも上下に自由に高さを調節でき、また中華料理店のテーブルのような回転台を中央に設置することで、実験器具や資料のメンバー間の受け渡しがしやすくなるように工夫しました。
もちろん、改良した流し台やテーブルは障がいのある人だけでなく、健常者も利用することができます。こうした多様な人がバリアを感じることなく使えるように配慮したデザインのことを、インクルーシブデザインやユニバーサルデザインといいます。
実験室に設置が義務付けられている緊急用シャワーも、シャワーのハンドル位置を低くして車いすで利用できるように改良。また、通常は廊下に設置されるが、車いすでのアクセス確保のため実験室の中に設置している(共同研究:ヤマト科学、GKデザイン機構)
多様な人材が参加したほうが高い成果を期待できる
誰もが実験に参加できる環境の整備は、決して十分とはいえないものの、日本よりもアメリカのほうが進んでいます。アメリカではADA(障がいのあるアメリカ人法)に基づき、高等教育における実験室の設計についてもガイドラインが定められており、設備のうち5%は障がい者が利用できるものにすることが求められています。また、理化学機器メーカーも、ADAの基準に準拠した製品を開発・販売しています。
日本も、障害者差別解消法の施行などによって、障がい者の大学進学のバリアを取り払おうとする動きが起きてはいますが、多分に福祉政策的な要素があります。
一方、アメリカの場合は、科学競争力の強化を図るために、STEM分野への多様な人材の参加を推し進めている側面があります。最近では、均質性の高いメンバーによる研究よりも、国籍や年齢、性別などにおいて、多様なメンバーが関わった研究のほうが、高い成果を上げる傾向があるという論文も出ています。注目される論文ほど引用回数が多いものですが、論文の著者グループの多様性と論文引用回数には相関関係がある、という結果が発表されたのです。
その多様なメンバーの中には、当然障がい者も含まれます。ですから実験環境のアクセシビリティを高めることは、障がい者本人の研究者としてのキャリアを切り開くだけでなく、科学や社会の発展にもプラスとなるわけです。
障がいのある高校生に実験の機会を提供したい
こうした中、学術界だけでなく、マイクロソフトやグーグルをはじめとした企業においても、製品コンセプトの企画段階から障がい者を含めた多様な人材が関わった上で、誰にとってもアクセシブルな製品を開発していこうとする動きが加速しています。
障がいのある当事者がデザイン設計に関わることは、それ以外の人たちにとっても、自分にはない視点を得られるため、新しいアイデアを生み出す上で非常に有益だといえます。
私自身は、今携わっているインクルーシブ・デザイン・ラボをモデルルームのようにしたいと考えています。日本の多くの大学や研究所は、バリアフリーな実験環境を実現したいと考えたとしても、何から手を付ければいいのか、きっと分からないはずです。そこで私たちのラボを参考にしていただければと思うのです。
また障がいのある高校生に、このラボを広く開放する機会もつくっていきたいです。多くの場合、彼らは学校での理科の実験時には、同級生が実験する様子を見学する立場に回ります。だからこそ、自分で手を動かし、最後までやり遂げることができたという経験をしてほしい。何より周りの大人たちの「障がい者が実験に参加するのは難しい」という先入観を打ち破りたいのです。
このラボで、私がやるべきことはまだたくさんありそうです。